![]() |
| 昭和19年8月22日、学童疎開船対馬丸は魚雷攻撃を受けて沈没。 死者1458余命、生存者236名。 |
|
| 対馬丸 〜さようなら沖縄〜 |
|
| 文部省選定 厚生省中央児童審議会推薦●日本PTA全国協議会推薦●映倫青少年映画審議会推薦 日本映画ペンクラブ推薦●カトリック広報委員会推薦 |
|
| 企画:映画センター沖縄県連絡会議 原作:大城立裕(理論社刊) 製作:対馬丸製作委員会 協力:対馬丸遺族会 |
|
| 【1982年/カラー/アニメーション/1時間15分】 | |
| 解説 | |
| 「対馬丸遭難事件」は1661人の乗客のうち、生存者わずか156人という惨事です。 犠牲者は罪もない学童や幼い子、一般人ばかりという、他に類を見ない悲劇でしたが、 戦後まで知らされませんでした。沖縄は太平洋戦争で唯一地上戦が繰り広げられ、 多くの市民が犠牲になったところで、人々は「疎開に行くも地獄、残るも地獄」という 窮地に立たされていたのです。 |
|
| 物語 | |
| 昭和19年7月、沖縄各地には続々と兵隊が送り込まれ、戦火が身近に迫っていた。そんな中、那覇国民学校では重苦しい緊張感につつまれて、職員会議が開かれていた。 「学童疎開は国家に対して我々の出来る最も身近な御奉公だ。軍の要請で働ける者意外は全部県外へ出て行かねばならない」 「疎開船が潜水艦にやられた場合、責任は誰が・・・」 「疎開は国策です」 不安を感じはしたものの、学校は兵隊の宿舎となり、子供たちさえ連日飛行場作りの作業をするような沖縄よりも、本土へ行ったほうが満足な教育が出来る、と考える教師もいて、疎開する児童集めが急ピッチで進められた。 父兄は大方子供を手放すことの不安を訴えた。途中の危険、向こうでの生活、何ひとつ安心できる材料はない。教師たちも不安を解消させるほどの確信はなかった。そんな中で子供たちだけは、 「ヤマトへ行けば雪が見られる」 「汽車に乗れる」 「勉強して少年航空兵になるんだ」 などと、修学旅行に行くように喜んで疎開したがった。清は母親の反対を押し切って行きたいと訴え続けた。また親に内緒で疎開手続きをする子供もいた。 8月21日、対馬丸乗船のために、港には約5000人の疎開者と見送り人が集まった。 「乗るのは軍艦じゃないんですね」 厚い雲に覆われた空とともに、親たちの胸に不安がよぎる。絶壁のように高い対馬丸の船腹を登り、甲板に降り立った子供たちの中には、親と離れた淋しさにベソをかく子もいたが、多くの子は初めての大きな船に興奮し楽しんでいた。 午後6時30分、船が動き出した。生憎小雨が降り始めた。 「沖縄が見えない。この旅行は汚れたな」 健治たちは肩を漏らしながらませた冗談を云って笑い合った。 子供たちのざわめきを載せて、対馬丸は進んでいく。 翌22日夜。船はいよいよもっとも危険な海域に入った。 「老巧船だからスピードが出ない。ジグザグコースを走って、潜水艦攻撃を避けるべきだ」 「しかし、それでは到着が遅れる」 輸送指揮官が船長を制して、船はほぼ直線に進んだ。 「今夜さえ無事なら、明日は本土につく。眠らないで警戒しよう」 教師たちは、万一を考えて、なるべく子供たちは、甲板に眠らせた。しかし、半数も甲板に上げれば、もう横になる場所もないのだった。昨夜騒ぎすぎた子供たちは、その疲れか、早くからぐっすりと眠り込んでいた。 22日夜10時12分 「ドーン」 第一弾命中、つづいて第二段、第三弾。 三発の魚雷を受けた対馬丸は天に届くような火災を発生して11分後に沈没。 船艙内は大混乱だった。目を覚まさない子供たちを教師は投げとばして起す。人の頭をふみながら縄梯子に殺到する子供たち。甲板では、船員や高学年の子供が、舷側を越えられない子供たちを海に投げた。親子で、子供たちどうしで、手をとりあって海に飛び込む。 しかし、大半の子供たちは船とともに沈んだ。 浮遊物やイカダにつかまった子供たちを、台風の高波が襲う。フカが襲う。運が良い者は翌日漁船に救われる。6日目に島に流れついた子もいる。8日目に助かった者もいる。 約一ヵ月後、清をはじめ5人の子供たちがひっそりと沖縄に戻されてきた。絶対に沈没の秘密を守るようにといわれて・・・。 10月10日、初の那覇空襲。人口6万の那覇市は焼土と化した。燃え上がる狂気のような炎を見ながら清は口を開いた。 「対馬丸は沈んだんだ。健ちゃんも勇ちゃんも海に飛び込んで死んだよ。ボク何も話せなくて、つらかった・・・」 |
|
![]() |
| ★上映のお申込・お問い合わせ★ |
| 株式会社シネマ・ワーク |
| 京都市中京区蛸薬師通烏丸西入 AOI ビル4F |
| tel:075-255-5212 fax:075-255-6790 |
| E-mail:cwe@cinemawork.co.jp |